メソアメリカから新スペインへと生まれ変わった中南米のカカオ豆栽培は、働き手不足やカカオ豆自体が病気になるなど、さまざまな要因が重なり、次々と栽培の危機にさらされていきます。
その都度、スペイン人はカカオ豆を移植することで、もともとの目標であった大量生産への道を切り開き、さらには、第3の新種さえも誕生させることができたのです。
そんなカカオ豆の移植の歴史を辿ってみましょう。
<目次>
・カカオ豆栽培地がメソアメリカからトリニダード島へ
・カカオ豆の栽培地を変えて大量生産
・言わずと知れたカカオ豆栽培地ベネズエラは幸せの地?
・トリニダード島のカカオ豆壊滅!第3種目の誕生
・まとめ
・カカオ豆栽培地がメソアメリカからトリニダード島へ
新スペインでのカカオ豆栽培の衰退により、歴史はトリニダード島に移ります。
カリブ海の南端、ベネズエラ沖に浮かぶトリニダード島は、1498年にコロンブスに発見されたことによってスペインの植民地になり、サトウキビ栽培地として重要な役割を担っていました。
トリニダード島でのサトウキビ栽培もカカオ豆栽培同様に、多くのインディオの命が奪われ、人口減少によって働き手が足りず、当時、イギリスとの間で交わされていたアシエントによって、アフリカから連れてきた黒人を奴隷として働かせるのが主流でした。
~余談~
この当時、アシエントと呼ばれる1517年に施行されたイギリスとの奴隷供給契約によって、ポルトガル商人を介して、スペインは、アフリカの黒人を奴隷として買い、意のままにアメリカ大陸へと送り込むことができました。
トリニダード島は、年間を通して20℃を下回ることがなく、35℃を超えることがないという気温の変化が少ない地域で、北緯10度3分~10度50分の熱帯地域で、粘土を含む地層の地域があります。
カカオ豆を栽培するために、うってつけの場所といえます。
サトウキビとカカオ豆の栽培地となり、大きなプランテーション(農園)ができあがったトリニダード島は、17世紀~19世紀にかけ、とても発展していったといわれています。
しかし、その陰で、どれだけ多くの先住民や黒人の命が奪われ、どれだけ多くの人々が嘆き苦しんだのか・・・そう考えると、胸が打たれる思いです。
・野生のカカオ豆を開拓して栽培地に
トリニダード島に移植した後、1528年、新たにスペイン植民地になったエルサルバドルで、誰も開拓していない自然栽培のカカオ豆を発見。
スペイン人は、開拓して栽培地にしようと動き出します。
~余談~
エルサルバドルは、ユカタン半島を少し南下し、地図上の細くなっている地域で、グアテマラとホンジュラスの隣接する中米の1国です。
1524年、ペドロ・デ・アルバラードがグアテマラを征服したことにより、隣接していたエルサルバドルは、最後まで抵抗したものの1528年、スペイン領になりました。
西部のイサルコでカカオ豆栽培が盛んで、現在も、エルサルバドル特有のアリバ種の栽培が行われています。
エルサルバドルでみつかったカカオ豆は、フォラステロ種の1種でアリバ種といい、害虫や病気などに強く、味や価値は劣るものの、メソアメリカのクリオロ種(後述あり)から比べて栽培しやすいため、スペイン人が求めている大量生産に適したカカオ豆の種類です。
ユカタン半島やメキシコなどで栽培されていたクリオロ種から比べると、品質も味わいも価値も低下してしまうものの、大量生産できるのであれば、それに越したことはないという考えから、ここがメインのカカオ豆栽培地へと発展していきます。
こうして、大量生産をすることができるようになったカカオ豆は、大衆の口にも、チョコラテが入るようになります。
これこそが、コルテスがチョコラテを大衆に広く広めたといわれる理由です。
しかし、エルサルバドルでも、同じことが繰り返されます。
もともとカカオ豆栽培に携わっていた人々や、そのために連れてこられた奴隷の人々に対するスペイン人の扱いは、人口が減少してしまったマヤ族の時と、それほど大きく変わらず、過労死する人、病気で亡くなる人が増加したことを受け、カカオ豆栽培地の後継者は現れず、1600年頃には衰退していきます。
・言わずと知れたカカオ豆栽培地ベネズエラは幸せの地?
ベネズエラは、現在でも希少価値の高いクリオロ種の産出国として、チョコレート通の人の中では、言わずと知れた南米のカカオ豆栽培地ですね。
エル・ドラード伝説と呼ばれる黄金郷(黄金の国)伝説がヨーロッパで噂になっていたことにより、コロンブスが1498年にアメリカの地に訪れて以来、現在のベネズエラ地域には、たくさんのコンキスタドール(征服者)が、その地を我が物にしようとやってきました。
しかし、夢のような伝説は夢に終わり、黄金の国は実在しないものだということがわかると、コンキスタドールはどんどん離れ、ヨーロッパの文化が取り入れられることなく、開発が遅れた地域になっていきます。
その反面、スペイン人からの監視が緩かったため、先住民が活動しやすい土地となり、たばこなどのプランテーション農園が盛んになりました。
スペイン人がベネズエラのカカオ豆栽培に目を付けたのは、17世紀後半のことです。
病気や害虫に弱く、栽培が難しいといわれるクリオロ種は、ごく一部の地域でしか栽培することができません。そのごく一部の地域にベネズエラが含まれていて、カカオ豆栽培にとって、最高の地とさえ言われています。
そんなベネズエラのカカオ豆栽培は、18世紀に盛んになり、スペイン本土との貿易さえもするようになります。
これは、あくまでも私の考えですが、メソアメリカから南米に逃亡した人がいたことを考えると、もしかしたら、南米に逃亡した人の中から、ベネズエラでのカカオ栽培を再開した人がいるかもしれません。
メソアメリカとは違い、スペイン人による支配が緩かったことが、この地の最大の強みだったのでしょうね。
・トリニダード島のカカオ豆壊滅!第3種目の誕生
18世紀に入った頃、黒人奴隷を中心にカカオ豆栽培をしていたトリニダード島で、予期せぬ事態が起こります。
メソアメリカから移植して順調に成長していたはずのカカオ豆が、何かしらの理由によって、壊滅の危機に陥ってしまったのです。
なぜ、そのような事態になったのか・・・
病気になったという説、台風や嵐、ハリケーンが起きたという自然災害説など、さまざまな説があり、本当のことはわかりません。
さまざまな要因が重なり、カカオ豆の木が枯れ、壊滅の危機に陥ってしまったのでしょう。
ただ、最初にトリニダード島に移植されたカカオ豆は、クリオロ種です。
もともと栽培が難しいといわれるクリオロ種を、素人の黒人が簡単に栽培できると思うこと自体が間違っているように、私は思います。
スペイン人は慌てて、栽培がしやすく病気などに強いフォラステロ種をトリニダード島に移植することで、この危機を回避しようと試みました。
この試みは功を奏し、新たな種類のカカオ豆が誕生します。
トリニタリオ種です。
トリニタリオ種は、クリオロ種のように繊細なまろやかさのある味わいでありながら、フォラステロ種のように病気や害虫、気候の変化などに強くて栽培しやすいという、両方のいいところを併せ持った性質があるカカオ豆です。
壊滅状態だと思われていたクリオロ種が秘かに生き延び、息を潜めてその時を待っていたのでしょう。
新たに移植されたフォラステロ種と自然交配し、知らず知らずのうちに、両者のいいところどりをした子孫が育っていたのです。
これによって、トリニダード島のカカオ豆栽培はさらなる発展へとつながっていったのです。
・まとめ
どうすればいいのか試行錯誤し、それを行動に起こしたスペイン人の頭の良さと行動力にすさまじいものを感じますが、スペイン人の配下で死に物狂いに働き、努力し続けた先住民の人々の力があったからこその功績ともいえます。
私は、そんな先住民の人々に対し、尊敬の念を覚えます。
カカオ豆の栽培の歴史は、スペインのチョコの歴史を語るうえで欠かせないものであり、その反面、中南米の先住民の人々が過酷な重労働を強いられ、必死に生き抜いた歴史でもあります。
それを決して忘れてはいけないように、私は思います。